【プロフィール】

青空Thankyou

 

ごあいさつ

 

 

はじめまして。

 

プロフィールを見に来ていただいてありがとうございます。

当ブログ管理人の『KOU』と申します。

 

このたび、ブログ【IDDM×LIFE】を開設いたしましたので、

これから末永く、どうぞ宜しくおねがいします。

 

このページでは、当ブログについてや、

自分のことについて紹介させていただきます。

 

 

簡単なプロフィール

ニュートラル

●名前:KOU

●出身地:青森県

●居住地:東京都

●趣味:プロレス・格闘技・大相撲観戦

KOU
もっぱら・・・テレビ観戦です😅

 

●好きなもの:刺身とお酒

KOU
呑みすぎとのウワサも・・・💧

 

●嫌いなもの:紅茶(自分にとってはゲ〇の味しかしません)

KOU
紅茶好きの方、ごめんなさい・・・ 🙇‍♂️

 

●性格:見た目とは裏腹に、根は基本マジメ

KOU
人は見かけによらないもんです💪

 

 

使用インスリン

 

◆持効型溶解インスリン

トレシーバ 注 フレックスタッチ

トレシーバ

 

◆超速攻型インスリン

ノボラピッド注 フレックスタッチ

ノボラピッド

 

フィアスプ注 フレックスタッチ(※2021.8.21追記

フィアスプ

 

◆速攻型インスリン

ノボリンR注 フレックスペン(主に飲酒時 ⇒ 食事が長い時に使用)

ノボリンR

 

 

このブログで伝えていきたいこと

 

ブログ ロゴ11

 

当ブログで情報発信するカテゴリー

  •  1型糖尿病
  •  コピーライティング
  •  プロレス
  •  大相撲・格闘技

 

 

1型糖尿病

 

1型糖尿病と私の歩み

 

 その日は突然やってきた・・・・・・

突然

 

 

2018年6月11日早朝

 

 

 

「・・・・・・イィデデデテェェ~~!!!!」

 

 

 

その日私は、

左足ふくらはぎの激しい激痛とともに、

目覚めました。

 

今まで味わったことのない、左足のこむらがえりでした。

こむらがえり ⇒ 足がつること

 

 

 

(これは・・・さすがに何かがおかしい😰)

 

 

 

そう思いました。

 

と言うのも、その日まで私はかなりの頻度で、

寝ている時に足がつるようになっていました。

 

しかも、この前呑みに行った友人には、

「そう言えば、最近痩せてきてない?」

と言われました。

 

体重をはかると、なんと・・・

 

 

 

「60㎏」

 

 

 

今まで、どんなに走ったり鍛えたり、どんなにダイエットをしても

「65㎏」を切ることはなかった体重。

 

(・・・・・・これは🥵 )

 

最近そういや異様にのどが渇くし、異様にトイレが近い気がする・・・・・・

 

すぐさまインターネットで症状を調べると、出てきたワードが

 

 

 

「糖尿病」

 

 

 

 

(・・・いやいや、そんな訳ない!!😫)

 

(・・・・・・あれは基本的に、不摂生した肥満の人がなる病気じゃ??😰)

 

実は私にとって、この世に存在するあらゆる病気の中で、

1番かかりたくなかった病気、それが糖尿病でした。

 

当時の自分にとって、糖尿病のイメージは

食事は死ぬまでずっと制限

→いずれは、あらゆる合併症を引き起こす

→失明や足の壊死、最終的には人工透析が必要になる

といった、かなり悲惨なもの。

 

KOU
あくまでも、当時の無知な私の勝手なイメージです💦💦

 

 

おそろしく不安にかられた私は仕事を休み、

近所の内科に行くことにしました。

 

外は、どしゃぶりの大雨。

 

病院までの道のりは、いつもより長く険しく感じられ・・・・・・

 

それは、これから自分の人生にふりかかる災難を、

暗示しているかのようでした。

 

KOU
あの病院までの大雨の光景は、 今でも目に焼き付いてるなぁ・・・😢

 

 

病名の宣告・・・そして怒涛の展開へ

 

病院ではすぐ、尿検査と血液検査を受けました。

 

 

そしてその結果とは・・・・・・

 

私の想像を、はるかに超えるものとなりました。

 

 

担当医は開口一番こう言いました。

 

 

「・・・これはマズイ!!」

 

 

その時、私の体に突然起こった異変は、

もはや個人病院では対応できないものとなっていたのです。

 

「これ、あと少し遅かったら危なかったよ!!」

 

血糖値は、400をはるかに超えていました。

HbA1cも、9.5を超えていました

※HbA1c ⇒ 直近1~2か月の平均血糖値を反映した値。

正常値は5.6%未満と言われている。

 

 

そして・・・

とうとう担当医から、衝撃の宣告をうけました。

 

 

「これは・・・」

 

 

 

「・・・・・・1型糖尿病だね」

 

 

ショック

 

「今すぐ紹介状書くから、大きい病院行って!!」

「明日から即入院だと思うよ!!」

 

・・・・・・。

 

紹介状・・・入院・・・

次々と決まっていく今日の自分のスケジュールに、

頭がまるで追いつかず、ただただ混乱していました。

 

そもそもその時、

糖尿病に「1型」と「2型」があることも知らなかった私。

 

(自分はこれからどうなるんだろう・・・😖)

 

(なんで、よりによって俺なんだよ・・・😭😭)

 

恐怖と不安で頭がいっぱいの中、

私は紹介状を手に、近くの総合病院へと向かいました。

 

 

総合病院では再び、尿検査と血液検査を受けました。

 

(・・・・・・ウソであってくれぇぇ!!)

 

私のかすかな願いもむなしく(当然ですが)

診断結果はやはり同じでした。

 

「もう酒もタバコもダメだからね!!」

 

意地悪な看護師からそう言われました。

 

KOU
実際はそんな事ないらしいけどね~😜

 

※後に、タバコ⇒ニコチン・タール0の電子タバコ(VAPE)に、

お酒⇒透明な色のものは呑まないようにしました。

 

「じゃあ、明日から入院してもらうから」

 

言われていた通り、私は翌日から緊急入院となったのです。

 

 母が放った一言・・・そして、現実に気づく

うなだれる

 

入院生活の荷造りをするため一度自宅に帰った私は、

この状況をとりあえず説明するため、

実家の母に電話することにしました。

 

当時母には、口が酸っぱくなるほど

「年なんだから、そろそろ一度検査を受けなさい」

と言われていたんです。

 

KOU
わりと心配性な母なんですよ・・・😅

 

ただ、この1型糖尿病というのは

生活習慣病でなる訳ではありません。

 

私がたとえ、

酒を呑みすぎようが、不摂生しようが

それが原因では絶対ありません。

 

現代医学では、詳しい原因は特定されていないのです。

 

つまり、

予防できるような類の病気ではない。

 

そして、もう一つ言えることは、

現代医学では、治らない病気だということです。

 

KOU
この状況を、どうやって話せばいいんだろう・・・😥

 

最終的には、一から順を追って説明するしかないと腹を決め、

母の電話番号に発信しました。

 

「・・・もしもし」

 

私は母に、今日の経緯を説明しはじめました。

 

そして、「1型糖尿病」と診断されたことを伝えたその瞬間、

母は開口一番こう言いました。

 

 

「・・・だから、早く検査しなさいって言ったでしょぉ~!!怒怒」

 

 

かなりの怒り口調でした。

 

普段から飲酒も喫煙もする私が、早く検査に行かないからこうなった・・・

母の忠告通りもっと早く検査に行ってれば、結果はもっと違っていた・・・

私の不摂生が少なからず原因となって糖尿病になった・・・

 

そんな言い方でした。

 

 

(・・・・・・ふざけんな!!😣)

 

 

ショックと怒りと悲しさと・・・・・・色々な感情が入り混じりました。

 

母は、元看護師です。

現在もグループホームで勤務しており、注射など医療行為をしたりしています。

そんな、ある意味「医療の専門家」である母でも、実際に1型糖尿病を知らなかったのです。

 

 

糖尿病=2型糖尿病

 

 

この認識しか無かったのです。

 

 

(母さん、違うんだよ・・・💧)

 

(・・・俺のせいじゃない😢)

 

私は、怒りをぶつけながらも、きちんと説明しました。

 

糖尿病には1型と2型がある事

飲酒や喫煙などの不摂生でなる訳ではない事

現代医学では原因がわからない事

仮に早く検査に行ってたところで、結果は変わらなかった事

少なくとも私のせいでなった訳ではない事

そして・・・一生治らない事

 

母も、元看護師としてのプライドか、

最初の方は反論するような感じもありましたが、

私が説明していく中で、ようやく色々な状況を理解したようでした。

 

「1型糖尿病の人に、さっきみたいな事言うのは失礼な事だよ!!😡😡」

 

自分のせいで1型糖尿病になった訳ではないのに、

さも私に非があるような感じで最初に言われたのは、

正直耐え難いものでした。

 

KOU
まぁ・・・知らなかったんだから、しょうがないですけどね・・・😅

 

それだけ、私のことを心配してくれてるってことです😉
KOU

 

 

最終的に誤解は解けたものの、何とも言えない気持ちで電話を切りました。

 

そして、ふと気づきました。

 

元看護師の母でも知らなかった【1型糖尿病】

つまり、世の中での【1型糖尿病】の認知度のあまりの低さ。

【糖尿病=2型糖尿病】という世の中の認識。

【1型糖尿病】が、不摂生や生活習慣病が原因ではないという事の認知度。

私は2型糖尿病患者とは違うという事を、これから一生かけて、

色んな人に説明しなくてはいけないのかという絶望感・・・・・・

 

母が放った一言は正直かなりムカつきましたが(笑)

そのおかげで私は、

世の中における、『1型糖尿病の認知の現実』に気づいたのです。

 

KOU
こういう思いをした事がある1型糖尿病患者は、ホント多いんじゃないかな・・・

 

 

 ツラい入院生活・・・ベッドの上でW杯観戦

入院2

 

翌6月12日から、私の入院生活が始まりました。

 

部屋は6人部屋の真ん中。

 

まわりは自分より重篤な感じの、お年を召した患者さんばかり。

 

(ここで何日も入院するのかぁ・・・😰)

 

不安で落ち込む私のもとには早々と看護師さんが現れ、

さっそく血糖値を24時間計測する機械を、お腹にブスッと刺して付けられました。

 

この機械、風呂に入る時は濡れないように、ジップロックに入れて入浴してました(笑)

 

入院1

 

採血、採尿、ホント入院中何回やったことか・・・

 

そして、今後食事ごとに一生やる事になる【血糖値測定】と、

これからの人生の命綱となる相棒【インスリン注射】。

 

はじめは、血糖値測定もインスリンも、看護師さんにやってもらっていました。

そして入院中、徐々に自分で打てるように指導してもらいました。

 

どちらも結果的には、針を刺すことになります。

 

KOU
最初の頃はおっかなかったなぁ・・・🥵🥵

 

インスリンの針はものすごく細いので、ほとんど痛みはないのですが、

血糖値測定の時に採血で指先に刺す針は、まぁまぁ太いのでまぁまぁ痛いです。

 

(これを一生やっていかないといけないのか・・・・・・ 😭 )

 

でももう、なってしまったものは仕方ないし、

受け入れて生きていくしかないので、早く慣れるために必死でした。

 

そして、入院中は時間があったので、

1型糖尿病について、自分なりに色々勉強しました。

 

確かに調べれば調べるほど、ネガティブな情報もたくさんあり、

将来に対する不安で落ち込むこともありました。

 

しかし、血糖値コントロールさえうまく出来れば、

健常者と変わらない生活が送れることも同時に学びました。

 

 

 

さてさて入院中とはいえ、やはり楽しみなのは食事♪

 

でも自分は1型糖尿病・・・

 

どんな食事が出るのかなぁと思っていましたが・・・

最初に出てきた食事がこちら

 

 

 

↓ ↓ ↓

 

 

 

 

病院食

 

覚悟はしていましたが・・・・・・やはりこのぐらいでした😭(笑)

 

KOU
もう毎食、粒がなくなるまで噛み倒しましたよ~!!😋

 

それでも、のちに食事で麺類が出てきたり、カレーが出てきた時はうれしかった😍😍😍

 

 

そして貴重な体験だったのが・・・

6月19日 ロシアW杯 日本 vs コロンビア戦⚽

 

W杯

 

まさか・・・W杯の試合を入院中の病院のベッドの上で

ワンセグで観ることになるとは思わなかった・・・😂

 

しかも消灯は21時。

 

イヤホン付けて出来るだけ音をたてないように

出来るだけ興奮しないように観ましたよ😁

 

KOU
でも大迫選手のゴールは、さすがに我慢できずに声でちゃいましたわ~!!😆

 

いやぁ~本当に貴重な体験をさせてもらいました。

 

 

1型糖尿病と闘う仲間たち

インスリン注射

この1型糖尿病は子供の頃に発症することが多く、10歳にも満たない子供が

すでにインスリンを手放せない生活を送っていたりします。

 

小さな子供たちが、生きるためにインスリン注射を自分で打っている・・・

 

そういった画像や映像を目の当たりにし、そんな小さな子たちも懸命に頑張っているのだから、

自分も落ち込んでいられない、前向きに頑張って生きていこうと考えるようになりました。

 

その一方、著名人の方々の中にも、1型糖尿病と闘いながら生きている方々がいます。

 

日本では、阪神の岩田稔投手が特に有名ですね。

岩田稔選手オフィシャルホームページはこちらから

 

世界では、「チーム ノボ ノルディスク」という、

全員が1型糖尿病患者で構成された、プロサイクリングチームがあります。

チーム ノボ ノルディスク ホームページはこちらから

 

KOU
すごいとしか言いようがない!!👍

 

 

そして、自分的にビックリしたのが、

料理研究家の「こうちゃん」こと相田幸二さんが、

実は自分と同じ2018年に1型糖尿病を発症していたことです。

 

私は料理を作るのが好きで、昔からこうちゃんのレシピ番組をよく観たりしていました。

 

名前も同じ「こうちゃん」、出身も同じ東北地方で、しまいには、同じく2018年に1型糖尿病発症。

 

KOU
こんなに一致することありますかね~😅

 

以前から勝手に何か親近感を感じていたのですが・・・

これでよりいっそう親近感がわいてしまいました(笑)

 

いつか・・・仕事上で何か絡むことが出来たらうれしいですね。

相田幸二さん公式ブログ「こうちゃんの簡単料理レシピ」はこちらから

 

このように、世界中には1型糖尿病と闘いながら

生きている仲間たちが少なからず居るんです。

 

自分も仲間たちに負けないように、

1型糖尿病と向き合いながら、力強く生きていきます!!

 

 

【まとめ】今、あなたに伝えたいこと

夕日

 

発症例が「10万人に1人」と決して多くない

1型糖尿病患者であるという現実は、確かに厳しいです。

 

 

ただ、考え方を変えれば、

 

ココがポイント

「インスリン注射や、運動・食事による血糖値コントロールがうまくできれば、健常者の方々と同じように生活ができる」

 

とも言えます。

 

 

現在も、定期健診は2カ月に1度必ず行っていますし、

その都度、尿検査と血液検査をやっていますので、

ある程度血糖コントロールがうまくいけば、

他の健常者の方たちより、むしろ健康に生きていけるかも知れません。

 

私はそう捉えて、前向きに生きていこうと決めました。

 

 

そんな1型糖尿病と共に生きる私が、

 

『1型糖尿病でも前向きに生きていく』

 

ことをモットーに、

 

自分の今までの経験や勉強した知識、試してみたことなど、

自身の人生に関して情報発信することで、

1型糖尿病と闘う仲間や、家族や職場に1型糖尿病の人が居る方などに、

【情報の共有】や【認知の拡大】が出来ればと思っております。

 

今現在、1型糖尿病の認知度は、世の中で決して高くありません。

 

その認知度の低さがゆえに、2型糖尿病と一緒にされたり、

勘違いや誤った認識によって、つらい思いをされた1型糖尿病患者は

多いのではないでしょうか。

 

もしくはそれによって、家族や職場にいる1型糖尿病の人を

傷つけてしまった経験のある方も多いのではないでしょうか。

 

そういった方々と、何か思いを共感出来れば・・・

少しでも何かお役に立てれば・・・と思い、微力ではありますが、

少しずつ情報発信していこうと思います。

 

 

 

 コピーライティング

 

夢と現実のはざまで

 

 高校時代~進学校での挫折~

夢

 

学生時代、一応県内では「進学校」と呼ばれる高校に通っていた私。

 

もともと小学校・中学校とも成績は良い方で、

生徒会では委員長なんかやっていたりしました。

 

しかし・・・

 

高校に入学して状況は一変。

 

受験勉強から解放され、進学校に無事入学できたことで

ひとまず安心しきっていた私。

 

しかし入学早々いきなり開催されたのが・・・

 

「大学進学について」の講習会。

 

KOU
ちょっと、大学のことなんてまだ考えられないよぉ~!😱💨

 

 

・・・完全に頭がついていきませんでした。

 

我が高校の大学進学率は当時約96%。

ほとんどの生徒が大学進学。進学しない人は学年で2~3人いるかいないか。

 

高3の時なんかは、数ある国内の超有名進学校を押しのけて、

「全国高等学校クイズ選手権」で見事優勝する生徒がいたほど。

 

「高校に入学すること」がとりあえずのゴールだった私と、

すでに大学進学やその先を見すえてこの高校に入学してきた人たち。

 

差は歴然でした。

 

上には上がいることを、3年間でイヤと言うほど肌で実感😩

 

KOU
マジでかなわない!って人達がいっぱい居たなぁ・・・💧

 

完全に伸びた鼻はポッキリ折れ、徐々にめっきり勉強にも身が入らなくなり、

あっという間に成績も下から数えた方が早くなりました😭😭😭

 

 

上京~大学生活と夢の両立~

分かれ道

 

そんな自分でも一応、大学受験勉強はそれなりに頑張り、

無事第一希望の大学に進学。

 

しかし・・・私はひそかに、大学生活と同時に

また別の新たなビジョンを描いていました。

 

実は・・・もともと俳優を目指していた私。

 

大学入学はあくまでも、

東京へ行く為の『手段』の一つでしかありませんでした。

 

私は大学に通いながら、俳優へのチャンスを虎視眈々と狙っていたのです。

 

しかし、そんな片手間な気持ちで成立するほど、大学の勉強は楽ではなく・・・

 

『俳優』への夢と『大学生活』という現実。

 

どちらも捨てきれず・・・かと言って、どちらか一方に振り切ることも出来ず・・・

中途半端な状態で、私の気持ちはフラフラしていました。

 

そんな状態では大学生活が続く訳もなく、数年で大学をあえなく中退。

 

KOU
これに関しては、ホント両親には申し訳なかったと思っています🙇‍♂️

 

国立大学を辞めてしまったことは、かなりの人に「もったいない」と言われましたよ😅
KOU

 

『大学』という学歴を失い、私はもう後戻りが出来なくなりました。

 

夢の終焉~そして闇の中へ~

 

「よし、大学を卒業した同期よりも、やりたいを事やって幸せな人生を送るんだ!!」

 

そう決心し、俳優活動に力を入れて活動した時期もありましたが・・・

 

やはりいまいち振り切れず、目も出ませんでした。

 

もともと、2歩も3歩も先まわりして考えすぎてしまう性格の私。

 

 

もう一歩踏み出す勇気がなかったのか・・・ 😥

 

もともと性格が向いてなかったのか・・・ 😰

 

そもそもそんな才能がなかったのか・・・ 😭

 

 

そういえば、プライベートでよく呑みに行く先輩に元役者の人が何人かいて、

時々呑みながら激論を交わすこともありました。

 

先輩たちは年とともに、どんどん役者の仕事を辞めていきました。

 

「何で辞めるんですか!!もったいなくないですか!!」

当時の私は先輩方によくそう言ってたな。

 

「年とともに、考え方って変わるんだよ・・・」

「業界自体にもう魅力を感じないんだよね・・・」

「もう年だしぼちぼちかな・・・」

 

先輩方は大体みんな、こう言っていたような気がします。

当時の私には、あまり理解できませんでした。

 

そうこうしているうちに、私も少しずつ年を重ね・・・

そして役者業界自体も、年月とともに少しずつ風景が変わっていきました。

 

あんなに魅力的だった役者業界自体が、

私の中であまり魅力を感じないものになってしまいました。

 

KOU
・・・・・・あくまでもこれは私個人の勝手な見解ですから😅💦

 

結果として、あの当時先輩方が言っていたような状態に、自分もなってしまったのです。

これには自分もビックリです(汗)

 

『経験』や『知識』って、

基本的には人生において【良いもの】とされていますが、

時によっては、【邪魔になる】こともあるんですよ。

 

無知な時に勢いで突き進んでしまった方が、良い方向に働くこともあります。

 

『経験』や『知識』によって色々考えすぎてしまうことで、

色んな失敗例やリスクがどんどん浮かんできてしまい、結果として

「次への行動力」が削られてしまうのです。

 

自分の性格上、もっと無知な時にもっと積極的に

俳優という夢に突き進んでいれば、結果は違っていた・・・

のかも知れません。

 

KOU
まぁ、タラレバの話はこれぐらいにして・・・😅💦

 

結果として、『俳優』への気持ちはどんどん薄れていきました。

 

『俳優』と『大学』どちらも失ってしまった私。

 

完全に将来を見失いました。

 

 

『俳優』という夢を持ったからこうなったのか・・・ 😰

 

黙って大学を卒業していれば、幸せな人生をおくれたのか・・・ 😭

 

 

私は【夢を持つ】ことさえ否定しました。

 

KOU
よほどの覚悟をもってない限りは、夢なんて持つべきではないんじゃない?😫

 

そんな否定的な考えさえ浮かびました。

 

『俳優』という、人生の【目標】であり【軸】を失った私は、

もはやこれからの人生何をやって生きていきたいのか

わからなくなっていました。

 

『俳優』に代わるような、『俳優』と同じくらいの熱量を向けれるような

将来やりたいことを、私はなかなか見つけることが出来ませんでした。

 

KOU
・・・・・・これは完全に路頭に迷いましたねぇ🤮🤮

 

そして、とどめを刺すかのごとく降りかかった、1型糖尿病の発症。

 

これでいよいよ、これからの人生設計を

早急に真剣に考えなくてはならなくなりました。

 

正直かなり焦ってましたよ。

 

KOU
だってやりたい事って都合よくすぐ、見つけれるもんじゃないじゃないですか?🤔

 

 

もはや今から公務員にでもなった方がいいのか・・・ 😥

 

やりたくない仕事でもいいから、とりあえず固い仕事にでも就いて落ち着いた方がいいのか・・・😓

 

 

焦りながらも試行錯誤の日々・・・。

 

ただやはり、俳優に代わる熱量の目標でない限り、簡単に妥協はできない。

 

・・・そこだけは揺らぎませんでした。

 

 

闇からの脱出~コピーライティングとの出会い~

 

KOU
・・・すいません。やっとここからが本題です😅👋

 

 

そんな時に出会ったのが、「コピーライティング」でした。

 

きっかけは、何げなくインターネットを見ていた時のこと。

 

たまたま見つけたサイトには、「コピーライティング」というスキルを使った

「セールスコピーライター」なる職業について、こと細かく書いてありました。

 

とにもかくにも疑い深い性格の私。

石橋を何回もたたいては、結局渡らないみたいな・・・(笑)

 

実は、このサイトに出会った時も、最初はそんな感じでした。

 

KOU
「どうせダマシか詐欺でしょ!?🤨
ハイハイ、どうせ最後は高額なセールスとかかけるんでしょ!?😤
KOU

 

セールスコピーライター」の「セールス」という部分に、

最初はどうもアレルギー反応というか拒絶感を感じていた私。

 

しかし、このサイトは違いました。

 

私は読書・・・というか「字を読む行為」がどうも苦手で、

以前本の立ち読みをしている時に、

具合が悪くなったことがあるくらいなんですが・・・😅

 

そんな私がこのサイトでは、

気づけばスラスラと、最後まで文章を読むことが出来ていました。

 

「コピーライティング」や「セールスコピーライター」の情報量が、

サイト自体に豊富なのはもちろんですが、

それでいてわかりやすく、文章に何かとても不思議な力を感じました。

 

あとで勉強して気づいたことですが、実はそのサイトで書かれていた文章には、

全てコピーライティングの技術が使われていたのです。

 

ココがポイント

「コピーライティング」とは簡単に言うと、

「文章で、人の心と行動を動かす広告や文章術」のこと。

いまや、Webで収益をあげるには欠かせないスキル

 

ココがポイント

「セールスコピーライター」とは簡単に言うと、

「コピーライティングの技術を使って、文章を書いて商品を売る仕事」のこと。

 

KOU
いやいや・・・それでも私はダマされませんよ~!!😝😝

 

そう思っていた私ですが・・・

 

読み進めていくうちにどんどん内容にのめり込んで、

夢中になっている自分に気づきました。

 

ココがおすすめ

コピーライティングは、ひらすら勉強⇒実践を繰り返すことで、

学力関係なく誰でも習得できる。

 

ココがおすすめ

よって、セールスコピーライターは、

  1.  才能に左右されることがない。
  2.  年齢や実積が関係なく始められる。

 

もともと心理学に興味があり、普段の生活の中でも、

相手が今何を考えているかをすぐ考えるクセのあった私。

 

加えて、最近実はネットビジネスに興味があって、

PC1台でWeb収益をあげて生活できるようになれば、

満員電車に毎日揺られることもないし、仕事の場所も選ばなくていいし、

あとは大切な人と一緒にのんびり暮らせるよなぁ・・・

と漠然と考えていたんです。

 

年齢的に、今から普通に就職しても出世できないだろうしなぁ・・・😥
KOU

 

 

そう思っていた自分には、まさにもってこいのスキルでした。

 

 

KOU
・・・・・・よ~し、これだぁぁぁぁ‼‼‼‼‼

 

 

久々に体に電気が走ったような衝撃でした。

 

やっと・・・

 

やっと俳優に代わる、同じ熱量の情熱を捧げられる、

人生の目標が何となく見つかった瞬間でした。

 

 

自分はこれから「コピーライティング」を徹底的に学ぶ!!

 

もう迷いはありませんでした。

 

この疑い深い私が・・・

石橋をたたいても渡らない性格のこの私が、「コピーライティング」を学ぶために、

この時はなぜかすんなりと次の行動に移せたのです。

 

KOU
これこそがまさに、『人の心と行動を動かす【コピーライティング術】』なんですよね😉

 

私はそこで、そのサイトの管理人であるコピーライティングの師匠と呼べる方に出会い、

1から教材で学び、今まで必死に勉強してきました。

 

そして・・・これからも一生勉強し続けていきます!!

 

 

昨今のコロナ禍でいま改めて強く思うこと

コロナウィルス

 

今、世界中で猛威をふるっている新型コロナウイルス。

 

あの・・・志村けんさんの命を奪っていった憎いウイルス。

 

本当に・・・ただただショックだった😱💨😭
KOU

 

 

コロナウイルスによって、

私たちの生活や価値観はガラッと変わりました。

目に見えないこのウイルスとの闘いは、今後もしばらく続きます。

 

今回の一連のコロナ騒動をうけて、今後どう働いていくのか、

改めて真剣に考え直している方も多いのではないでしょうか。

 

ココがダメ

  • テレワークの環境が進んでいないため、出社しなければならない。
  • 仕事内容的にテレワークでは作業が不可能なため、出社しなければならない。
  • 非正規雇用のため、そもそも出社しないと給料が入らない。
  • 内定が決まっていた企業が、コロナの影響で経営が悪化したため、内定を取り消された。
  • 保育園が休園で子供を預かってもらえない中で、働きに行かなければならない。
  • 客商売の為、コロナの影響をもろに受け、売り上げが激減している。

 

この他にも、コロナの影響はあげきれないほどたくさんあると思います。

 

こうした状況がしばらく続くことを考えると、

「収入減が1つしかない」ことや「出社しなければ出来ない」仕事に対しては、

将来的に不安を覚えますよね。

 

そう考えると、今後私は改めて、

「Webで収益を得る」ことを目指していくべきだと考えます。

 

もともと私は「PC1台で、好きな場所で仕事をしたい」という思いから、

「Webで収益を得る」ことを目標に掲げて

「コピーライティング」というスキルを学び始めましたが、

コロナの影響で緊急事態宣言が出て以降、

改めてこのスキルを勉強し始めて良かったなと感じています。

 

「Webで収益をあげる」ことが出来るようになれば、

満員電車に揺られて出社することもなく、家から一歩も出ることもなく、

コロナウイルスの影響を受けずに、収入を確保することが出来るわけです。

 

この長引くコロナウイルス騒動のもと、

ますます「テレワーク」や「副業」が推奨されていく中で、

 

ココがポイント

「Webで収益を得る」という武器を1つ持つことは、今後の人生を生き抜いていくうえで、非常に重要である

と言えます。

 

もちろん、「Webだけで収益を得る」ことはメリット・デメリットがあります。

向き・不向きもありますし、勉強したからといってすぐに稼げるようにはなりません。

 

ただ、私は今からでも遅くないと思っています。

 

「Webで収益を得る」スキルを身につけることで、今後どんな状況になっても、

収入を確保出来る環境を、自ら作っておくことが大切であると考えます。

 

 

【まとめ】今、あなたに伝えたいこと

日の出

 

コピーライティングは、勉強(=インプット)しているだけでは上達せず、

文章を書いたり情報発信(=アウトプット)することで上達すると言われています。

 

一番ダメなのが、勉強ばかりしていて実践をしないこと。

 

そんな私も実はどちらかというと、今までは勉強ばかりしていて、

なかなか行動に移せずにいました。

 

ある程度コピーライティングを理解するまでは、

次の行動に移すのは恥ずかしい気持ちがあったからです。

 

KOU
完璧主義なところがありまして・・・反省😥

 

 

しかし、それではやはりいけないなと思いました。

 

学生時代に学校で勉強していた時は、必ずノートに書いていましたよね。

 

そう、人間は必ずインプットだけでは忘れてしまう為、

「書く」ことでアウトプットして覚えるようになるのです。

 

コピーライティングを日々勉強(=インプット)しながら、

同時にこのサイトでブログを書く(=アウトプット)ことで、

実際に私が学んだことを情報発信できるので、

私自身の覚えも早くなりますし、読者に価値提供することもできます。

 

・・・そう、まさに一石二鳥なのです!!😃👍
KOU

 

そういうわけで、これから少しずつではありますが、

情報発信=価値提供しながら、自分も勉強を続けていきます!!

 

 

プロレス

 

プロレスとの出会い

 

親父の影響~身近にあったプロレス~

リング

 

今やプロレスは、人気が回復してきたと言われてはいますが、

地上波放送でいえばメジャー団体新日本プロレスだけ。

放送自体も、深夜のコアな時間帯で30分のみです。

 

しかし、幼いころのプロレスといえば、

新日本プロレスも全日本プロレスも

夕方やゴールデンなど今では考えられないくらい良い時間帯で、

1時間たっぷり放送されていました。

 

当時は家も狭く、テレビは家に1個だけ。

 

親父は大のプロレス好きでした。

 

そんな環境で育ったので、普通に自宅の居間にいれば

テレビでプロレスの映像が流れている場面に遭遇する機会が多く、

ごくごく自然に、幼少期からプロレスが自分の体に入り込んできました。

 

夜は、親父が借りてきたプロレスのビデオがよく流れていて、

普通に私も観ていた記憶があります。

 

本棚には、「プロレススーパースター列伝」なる単行本が全刊置いてありました。

 

プロレスファンならご存じの名作!!・・・これは懐かしい😆
KOU

 

※プロレススーパースター列伝の詳細はこちら

 

 

寝床には、プロレス週刊誌「週刊プロレス」の最新号がいつも置いてありました。

 

流血したブッチャーやタイガー・ジェット・シンが表紙の週刊プロレスが、

子供時代の暗闇の寝床に普通に置いてあったなんて、

今考えるとちょっと怖いですよね😵

 

お婆ちゃんの家ではよく、新聞紙で作ったレスラー人形を相手に、

私は頭にセーターを巻いてタイガー・ジェット・シンを気取って、

プロレスごっこをしたことを鮮明に覚えています(笑)

 

・・・う~ん、我ながらかわいいな😍
KOU

 

 

環境の変化~自分発信で向き合い始める~

ビデオテープ

 

年月が経ち、私が小学校高学年くらいになる頃には、

親父はそれほどプロレスに興味を持たなくなっていました。

 

「今のプロレスはショーみたいになってしまったもんな」

そう言っていたかな。

 

寝床にあった週刊プロレスも、いつのまにか無くなっていました。

 

プロレスのテレビ放送の時間帯も、22時台から深夜へと追いやられて、

もはや自分の意志で録画しない限り、プロレスを観れなくなっていました。

 

どうしても録画できない時なんかは、両親に頼んで起こしてもらって、

夜中に意地でも観てましたよ(笑)

 

録画した放送の中で、入場シーンなど気に入った部分なんかは、

音だけをカセットテープに録音して、何回も聴いてました(笑)

 

KOU
テレビに近づいて、ラジカセの録音ボタン2つ同時押し・・・・・・懐かしいなぁ♪😅
録音する前は、「お母さんちょっと静かにしてて🤫」みたいな・・・
KOU

 

 

週刊プロレスは、本屋で時間をかけて立ち読みするようになっていました。

 

KOU
ゴングより断然週プロ派でした~♪

※ゴング⇒週刊ゴング 週プロ⇒週刊プロレス (両方ともプロレス週刊誌)

 

 

当時は、同じクラスに何人かプロレスファンがいて、

昨日テレビで観たプロレスの感想を言い合ったり、

体操マットの上でふざけて技をかけあって遊んでましたね。

 

鶴田のバックドロップや三沢のタイガードライバー・・・

 

KOU
今考えれば、よく重大事故が起きなかったな・・・と思いますわ🥵

 

あと当時スーパーファミコンで発売された

「スーパーファイヤープロレスリング」

 

自分ちにスーパーファミコンが無かったので、

友達んちにおしかけては、指の皮がむける程かなりやりこみました。

 

こうして、親父がプロレスを観なくなったこともあり、

私は自分の意志で、自分発信でプロレスと向き合うようになっていったのです。

 

派閥闘争~新日派 VS 全日派~

新日本VS全日本

 

90年代プロレスファンの間で、必ずと言っていいほど行われていた論争。

 

それが「新日派」か「全日派」かという事。

 

新日派=新日本プロレス(猪木)派

全日派=全日本プロレス(馬場)派

 

という意味です。

 

当時の新日本と全日本には、越えがたい大きな大きな壁がありました。

 

猪木と馬場がお互いを敵対視していたこともあり、

所属レスラー同士はおろか、ファン同士もお互い意識しあって、

時には熱くなって、決して相容れることはありませんでした。

 

私は当時、完全に「全日派」。

 

完全無欠のエースだったジャンボ鶴田が、肝臓の病気で一線を退き、

三沢光晴、川田利明、田上明、小橋健太が「四天王」と呼ばれ、

毎試合命を削るような試合をしていました。

 

自分はやっぱり、エースの三沢を推してたかな😉👍
KOU

 

一方、新日本プロレスは当時、

武藤敬司、蝶野正洋、橋本真也が「闘魂三銃士」と呼ばれ、

UWFとの対抗戦やnWoなど、一大ブームを巻き起こしていました。

 

時の勢いは・・・

悔しいですが、新日本プロレスの方にありましたかね。

 

それが悔しかったんでしょうか・・・今思えば、なぜか私は当時、

新日本プロレスをほとんど観ていませんでした。

 

一番勢いがあった頃の新日本プロレスを・・・。

 

KOU
今思えば、ホントもったいないよなぁ・・・😱💨

 

伝説の1995年10月9日東京ドーム大会

新日本プロレス vs UWFインターナショナル全面対抗戦、

通称「10.9」でさえ、私は何も観ていませんでした。

 

さすがに、のちのち全部観ましたよ~😅👋
KOU

 

 

これが世に言う「新日派」と「全日派」の対立だったのか・・・

 

確かにクラスメートが近くで新日本のドーム大会の話で盛り上がっていても、

一切会話に参加しなかったような気がします(笑)

 

全日派としての「意地」だったのでしょうか・・・

 

ちなみに・・・

今は・・・プロレス業界全体を応援してます!!💪

 

しかも当時の全日本プロレスは、完全に鎖国状態を築いていたので、

当然四天王と三銃士が交わることもなかった時代。

 

友人とは新日本の話はしませんでしたが、その代わりよく

「三沢と武藤ならどっちが勝つか」とか

「小橋と橋本ならどっちが強いか」とか

妄想を膨らませながら激論を交わしていましたよ。

 

KOU
もちろん、全日本のレスラーの方が強いと思っていました!!💪

 

まぁ、妄想の中で色んなレスラー同士を戦わせて想像することは、

今も昔もプロレスファンの楽しみの一つであり、変わることはありません。

 

ただ、色んな団体間の壁がほぼ無くなって、

ほとんどの夢のカードが実現してしまった現在を考えると、

当時は実現していない夢のカードがたくさんあって、妄想に事欠かなかったですね。

 

そういえば、一度だけ地元に全日本プロレスが巡業に来て、

友達と試合を見に行ったことがあります。

 

会場に入ると、入り口すぐに馬場さんが椅子に座って

ニコニコしながら来客を出迎えていました。

 

・・・マジで本当に馬場さん大きかったぁ~!!🤧💦
KOU

 

会場のトイレでは菊地選手と鉢合わせたり、

試合の退場時にはドリー・ファンク・ジュニアの分厚い手に触れたり・・・

 

何かただただ純粋に、楽しかったっていう記憶があります。

 

 

総合格闘技の芽生え~思春期の私と親父の意外な交流~

思春期

 

中学生~高校生くらいになると、

私にも順調に【思春期】ってヤツが訪れまして・・・

 

親父とはたまに、ささいな認識の食い違いから激しい言い争いになって、

結果として家庭内の雰囲気を悪くしてしまったこともありました。

 

KOU
思春期だったとはいえ・・・ホント申し訳なかったです・・・。🙇‍♂️

 

そんなこともあり、基本的に当時親父とは

やや距離を置いた感じではありました。

 

その頃、のちにプロレスを押しのけて隆盛を極める「総合格闘技」が、

少しずつではありましたが芽生え始めていました。

 

その礎となった伝説の団体

「リングス」

 

当時WOWOWのみの放送という、非常にレアなものでした。

 

当時プロレスファンの友人が、たまたまWOWOWに加入していたので、

録画してもらったビデオをよく観せてもらっていました。

 

一撃必殺の打撃、秒殺、大逆転でのギブアップ勝ちなど・・・

プロレスとはまた一味違った興奮がそこにはあったのです。

 

当時はヴォルク・ハンの複雑な関節技に熱狂してたな~♪😆
KOU

 

 

リングスの試合には、プロレスの試合と比べて

いわゆる「ショー的な要素」が一切ありませんでした。

 

親父がプロレスを観なくなった理由

「プロレスがショーみたいになってしまった」

 

そう言っていた親父と、思春期真っ只中の私。

 

それでも・・・

親父とコミュニケーションが取りたくて・・・

 

友人から借りたリングスのビデオを手に、

「ちょっと・・・観て欲しい試合があるんだけど・・・」

 

そう言って、親父にビデオを観せてその反応をみる。

 

それが当時の親父と私の、数少ないコミュニケーションだったかな・・・

 

リングスの試合は、親父が昔好んで観ていたような

グランドでの関節の取り合いや、ネチネチとしたレスリングの攻防が中心。

かと思えば、スパーンと一撃必殺のハイキックでKOがあったり。

 

ショー的なプロレスにアレルギーを感じていた親父も、

リングスの試合はかなり喜んで観てくれていたように思います。

 

その姿をみて、思春期だった私も・・・正直うれしかったです。

 

その時の親子の交流は・・・

幼いころ、プロレスの映像を親父と一緒に観ていた時のような、

少々ぎこちないけれど、

何だか今思い出してもほっこりとしたあたたかい時間でした。

 

 

プロレス界再編

衝撃の全日本プロレス分裂

ケンカ

 

東京に出てきた私の楽しみのひとつとして、

地元では出来ない大会場でのプロレス生観戦がありました。

 

東京ドームや日本武道館には何度行ったことか・・・

 

KOU
プロレスの聖地、後楽園ホールもホントいい会場ですよね♪

 

これは地元在住では不可能な、東京在住の特権です。

 

 

そんな中、全日本プロレスでは一大事件が起きました。

 

1999年1月31日  ジャイアント馬場死去。

 

団体の大きな柱を失った全日本プロレス。

ここから全日本プロレスは、激動の渦に巻き込まれました。

 

1999年3月6日  日本武道館にてジャンボ鶴田引退セレモニー

1999年5月2日  東京ドームにてジャイアント馬場引退記念興行開催(生観戦)

1999年5月7日  三沢光晴が2代目社長就任

2000年5月13日  ジャンボ鶴田フィリピン・マニラにて死去

 

そして遂に・・・

私が長年応援してきた全日本プロレスは大変な事態になりました。

 

2000年6月13日  三沢光晴 全日本プロレス退団

2000年6月16日  川田利明、渕正信、マウナケア・モスマンを除いた全選手が全日本プロレス退団

 

衝撃的でした・・・

 

馬場さんが亡くなってから全日本プロレス分裂まで、この期間わずか約1年半。

展開が早すぎて、ついていくのがやっとでした。

 

全日分裂騒動については、当時も今までも様々な憶測記事や報道がなされました。

 

この件に関しましては、当サイトで触れるのは差し控えますが、

退団した三沢サイドにも、残留した川田・元子夫人サイドにも

本当に色々なことがあったんだと思います。

 

こうして、昔から応援してきた全日本プロレスは、

その後三沢が立ち上げた『プロレスリングNOAH』と

元子夫人が社長を務める『全日本プロレス』に

完全に分裂してしまったのです。

 

 

躍動するNOAH 意地をみせる全日本

分岐

 

三沢がたちあげたプロレスリングNOAH。

 

2000年8月5日。

旗揚げ戦を観に行くことは出来ませんでした。

しかし、その後テレビで放送された旗揚げ戦の映像は、

今まで全日本プロレスを見続けてきた私にとって、

あまりにも衝撃的でした。

 

暗転する館内。

爆音、スモーク、飛び交う緑のカクテル光線。

 

何もかも、全日本プロレス時代には見たこともなかった光景でした。

これだけでも高揚感MAX!!

 

そして三沢社長はマイクを持って挨拶をし始めましたが・・・

途中感極まって、何度も声を詰まらせていました。

 

(あぁ・・・全日本ファンからは『裏切者!!』とか言われたりしてたけど、

本当にここまで色々あったんだなぁ・・・😢)

 

私も映像を観て、今までの馬場死去からの一連の経緯を思い出しながら、

思わずグッと来たのを覚えています。

 

演出面は派手になったものの、試合内容のクオリティは全日本時代と変わらず。

そこは一安心でした。

 

秋山のギラギラ感は当時ハンパなかったね~✨🤩
KOU

 

 

一方、残された全日本プロレスも仕掛けました。

 

2000年8月11日 新日本プロレスG1CLIMAX両国大会。

渕正信は、スーツ姿で敵地新日本プロレスへと単身乗り込みました。

 

そして、ここからのちに始まる「2大メジャー対抗戦」の扉を開くべく、

渕は見事に、歴史に残るマイクアピールを繰り広げたのです。

 

ここで颯爽と登場した当時の現場責任者長州力と固い握手。

そこへ蝶野正洋が現れ、渕に帽子を投げつけ、ツバをはき過激に挑発するも、

渕は余裕かつダンディな振る舞いでかわす。

 

投げつけられた帽子も、先にリングを降りて帰る蝶野に

「蝶野!!・・・・・・忘れ物だ」

と紳士に放り返し、格負けしないところを見せつけたのです。

 

これには・・・・・・完全にシビれました!!😆
KOU

 

その後、2000年9月16日新日本プロレス愛知県体育館、ついに川田利明が来場。

マイクでこうアピールしました。

 

「10月9日東京ドーム、全日本の川田として、健介を潰す!!」

 

ちょっと前では考えられなかった展開に、

私は興奮とワクワクが止まりませんでした。

 

そして、運命の2000年10月9日東京ドーム

大会名は・・・その名も「Do judge」

 

KOU
もちろん、観に行きましたよ~!!🤪🤟

 

証拠がこちら

 

 

↓ ↓ ↓

 

 

チケット

 

 

これでやっと、長年の新日派と全日派の闘いに一つの答えが出る・・・

 

そんな気持ちで、気合を入れて東京ドームへと向かいました。

 

敵地のドーム・・・殺伐とした空気の中、川田利明入場。

新日本ファンから、ゴミや飲みかけのコップが投げつけられる。

 

(川田負けるな・・・負けるんじゃないぞ!!)

 

観客である私は、共鳴して体が震えていました。

 

試合は壮絶を極めた激しい展開。

 

逆水平チョップや、ラリアットとキックの壮絶な応酬の末・・・

 

最後は渾身のジャンピングハイキックがカウンターで決まり、

川田の勝利!!

 

(全日本プロレスが勝ったぁぁ~!!🤣🤣🤣)

 

喜びと興奮で、その後の記憶はないですね・・・😅
KOU

 

対抗戦の1試合に勝ったに過ぎませんでしたが、

その試合に全日本プロレスが勝ったという事は、

その後の歴史においても、大変大きな意味があると思います。

 

全日本プロレスを応援してきてよかった・・・

心の底からそう思えた夜でした。

 

 

分裂から5年~運命の再会~

虹

 

その日は突然やってきました。

 

2005年4月24日日本武道館。

7月18日には、NOAHにとって2年連続2回目の

東京ドーム大会開催がすでに決定していました。

 

そして・・・5年前に袂をわかち、

今後2度と遭遇することはないと思われていた、

全日本プロレス川田利明の来場が、にわかに噂されていました。

 

(まさか・・・本当にやってくるのか💧)

半信半疑の中、この日日本武道館に向かった私。

 

最初の方は完全にそわそわしていて、試合に全然集中できませんでした。

 

そして第三試合が終了し休憩・・・という場面で場内が突如暗転。

 

「本日・・・武道館に・・・ある一人のレスラーが、決意を胸に来場しております」

 

一気に会場のボルテージは高まっていく。

 

そしてついに・・・

 

NOAHの会場に鳴り響く、あの男の入場テーマ曲「HOLY WAR」

イメージカラーの黄色のカクテル光線の中、川田利明がついにNOAHにきた。

 

「・・・・・・来たぁぁぁぁぁぁ!!!!!🤣🤣🤣🤣🤣」

 

館内の興奮は一気に沸点に達します。

 

私の頭の中には、分裂騒動から今までの出来事が走馬灯のようによみがえり、

目からは自然と涙がこぼれました。

 

「カワダ!!カワダ!!」

大カワダコールで迎えられ、川田はNOAHのリングにあがりました。

 

マイクを受け取りあいさつをした川田は、何とここで三沢の名を呼ぶ。

それに応え、三沢もリングイン。

 

あの分裂騒動から5年・・・・・・二人はついに同じリングに立ったのです。

 

そして川田は・・・

 

「7月18日、その日は空けておきます」

 

それに対し三沢も・・・

 

「・・・ドームのリングで待ってるよ」

 

この返答をもって、7月18日東京ドームでの両者の激突が電撃決定!!

「うおぉぉぉぉ~!!」

会場はこれでもかというくらいの大歓声!!

 

KOU
あの時の興奮は・・・相当やばかったな~🤣

 

そして、両者はガッチリと握手し退場。

ドームへの期待は一気に高まり、館内は興奮とどよめきがしばらく収まらず。

 

こうして、あの全日本プロレス分裂騒動から5年を経て、

三沢と川田は東京ドームで再び対峙することになったのです。

 

KOU
プロレスは長く見ている分、それだけ歴史を感じることが出来るから得だよね👍

 

いざ東京ドームの試合は、両者(特に三沢)のコンディションが悪く、

技の失敗など全盛期とは程遠い内容になってしまったものの、そんなの関係ない!!

 

二度とないと思われた5年ぶりのリング上での再会に、私はとことん酔いしれたのでした。

 

 

悲しすぎた・・・三沢光晴の死

三沢の死

 

忘れもしない・・・2009年6月13日。

 

その日私は、職場の仲間数人と居酒屋で楽しく呑んでいました。

 

いい感じで酔っ払い陽気に帰宅した私は、

歯を磨きながらパソコンを何げなくつけました。

 

すると、

私の目にはまさかの文字が飛び込んできたのです。

 

「三沢光晴 試合中に心肺停止」

 

(・・・。)

(・・・・・・え?)

 

一瞬、時が止まったようでした。

酔っぱらっていたこともあり、頭がまるでまわりません。

 

そうこうしているうちに間もなく、

ネットには一番見たくない速報が流れました・・・

 

三沢光晴 試合中のバックドロップで受け身に失敗し死亡

 

(・・・。)

(・・・・・・ウソだろ。)

(・・・・・・・・・ウソだぁぁぁぁぁぁ!!!!!😭😭😭😭😭)

 

私は、彼女がそばにいるにもかかわらず、人目もはばからず泣きました。

泣き崩れ、ただただ嗚咽が止まらなかったです。

恐らく人生で一番泣いたかも知れません。

 

確かに近年、すこぶる体調が悪そうだった三沢。

ただ、あの受け身のうまい三沢がなぜ・・・。

 

私はその事実をすぐに受け入れられませんでした。

しかし残酷なことに、その後テレビのニュースでも

三沢の死を伝える速報が流れ始めました。

 

私は残念ながら、もう三沢光晴の死を受け入れるしかありませんでした。

 

子供のころから応援し続けて、たくさんの夢と感動をくれた三沢光晴。

その三沢が死んだ・・・・・・

 

この悲しみに耐えられなくて、この想いを共有したくて・・・

私は深夜にもかかわらず、友人数人に電話をかけては、

泣きながら三沢の死を伝え想いを吐き出しました。

 

KOU
深夜なのに聞いてくれた友人たち、付き合ってくれてありがとう!!🙇‍♂️

 

翌日、テレビでは試合直後の映像が放送されました。

正直、かなりショッキングな内容でしたね。

 

最後バックドロップを仕掛けた齋藤彰俊の、

三沢を見つめる何とも言えない表情が印象的でした。

 

また・・・涙が止まらなくなりました。

 

今思うと、残念ながら三沢は遅かれ早かれ、こうなっていたのかも知れません。

それだけコンディションはかなり悪かった。

 

それを考えると齋藤彰俊には気の毒ですが、神様からこの役に選ばれたんだと、

何か意味があるんだと思って、まだまだこれからも頑張ってほしいです。

 

こうして私の心の中には、

「三沢光晴」という

あまりにも大きすぎる穴が、ぽっかりと開いてしまったのです。

 

 

【まとめ】今、あなたに伝えたいこと

三沢が亡くなって11年・・・。

 

私はもちろん現在も、プロレスを見続けています。

 

三沢光晴を失ったことはプロレス界にとってかなり大きな損失でしたが、

それでもプロレス界は前を向いて、今まで変わらず私に興奮と感動を与えてくれました。

 

私はプロレスを愛しています。

 

KOU
・・・・・・棚橋かよって?😅

 

今まで色んなプロレスファンと語り合ってきましたが、

正直、自分より詳しいプロレスファンに会ったことがないです。

 

まぁ・・・世の中にはいるでしょうけどね💧
KOU

 

そんな私が、これからプロレスについて情報発信=価値提供していくことで、

少しでもプロレスについて興味をもつ人が増えたり、

より深く興味をもってもらえるようになれば最高です。

 

KOU
まぁ・・・私が一番楽しむんでしょうけどね😝

 

基本的には新日本プロレス、全日本プロレス、NOAHに関する話題が中心になります。

時には他団体や総合系を語ることも!?😅

 

少しでも、楽しんでもらえるように頑張ります!!

 

 

 


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